家族に会って疲れる私は、冷たい人ですか?
お盆休みを終えて、お疲れのみなさまへ。
お盆の帰省を終えて、自分の家の玄関を開けた瞬間。
荷物を置いて、エアコンをつけて、いつもの椅子に座ったら、思わず声が出ました。
「ああ、疲れた……」
家族に会えて、うれしかったんです。
みんな元気だったし、久しぶりに話もできた。ご先祖様にも手を合わせられた。
楽しくなかったわけじゃない。
それなのに、自分の家に帰ってきた途端、心の底からホッとしている。
冷蔵庫を開けても誰にも何も言われない。
ソファに寝転んでも、気を利かせなくていい。
お茶を飲みたければ、自分の分だけ入れればいい。
その自由さに、ちょっと感動すらする。
そして思うんです。
家族に会って、こんなに疲れるなんて。
私は冷たい人なんだろうか、と。あ、これ以前の私です笑
でも、帰省のあとにぐったりしている人は、家族が嫌いだから疲れたとは限りません。
もしかすると疲れたのは、
家族に会ったことではなく、昔の自分をもう一度やったこと
なのかもしれません。
実家の玄関をまたぐと、年齢が巻き戻る
不思議なもので、実家という場所には、人を昔へ戻す力があります。
普段は自分で仕事をして、自分で予定を決めて、自分の責任で暮らしている。
それなのに実家へ帰って、母親に
「ちゃんと食べてるの?」なんて聞かれると、
「食べてるよ」と答えてしまう。
いや、何歳やねん、と自分でも思います。
もう十分すぎるほど大人なのに、親の前では、なぜか少しだけ「娘」に戻る。
言い返せるはずのことを飲み込んだり。
心配をかけないように、元気そうに振る舞ったり。
きょうだいが集まれば、昔と同じ順番で話が進む。
よくしゃべる人。
黙って聞く人。
場を丸くする人。
面倒な空気になったら、なぜか間に入る人。
何十年もたっているのに、配役だけは変わっていなかったりします。
家族というのは、ずいぶん長く続く劇団です。
しかも本人たちは、役を演じていることにも気づいていません。
家族の中では、いつの間にか「役」が決まる
私にも、昔こんなことがありました。
結婚したばかりの頃、夫の実家へ行くと、義母の昔の自慢話を聞くのが、なぜか私の役目になっていました。
一度始まると、だいたい2時間。
同じ話を何度聞いたか、もう覚えていません。
そのあいだ、夫も、夫の兄も、義父もいるんです。
いるんですけど、誰も私を助けない。
目が合っても、見て見ぬふり。聞こえないふり。
たぶんみんな、
「お母さんの話し相手は、任せた」
くらいに思っていたのでしょう。
今なら笑い話です。
でも、結婚したばかりの頃の私は、これが本当に苦痛でした。
「もうその話、聞きました」とも言えない。
途中で席を立つのも感じが悪い気がする。
だから笑って、うなずいて、最後まで聞く。
誰かに正式に頼まれたわけでもないのに、いつの間にか私は「義母の話を聞く嫁」になっていました。
まあ、いいんですけどね。
お義母さんがそれで満足したなら(笑)。
家族に疲れたのではなく、「昔の自分」に疲れたのかもしれない
家族の中では、誰かが決めたわけでもないのに、いつの間にか役ができます。
話す人。
聞く人。
場を丸くする人。
気づいて動く人。
そして一度その役に入ると、何年たっても抜けにくい。
親も年を取り、自分も昔とはずいぶん変わったのに、家族が集まると関係だけが昔へ戻ることがあります。
私も、夫の実家へ行けば「義母の話を聞く嫁」に戻っていました。
きっと誰にでも、似たような役があるのでしょう。
親の前では、つい心配をかけない娘になる。
きょうだいの前では、昔と同じように我慢する。
家族が集まれば、誰より先に動く。
どれも悪いことではありません。
家族を思いやれるのは、その人の優しさです。
ただ、優しさと無理は、見た目がよく似ています。
本当は座っていたいのに立つ。
聞きたくない話でも笑って聞く。
言いたいことを、「まあいいか」と飲み込む。
一つひとつは小さなことでも、それが何時間も続けば疲れます。
だから、家族に会ったあとにぐったりしたときは、
「私って冷たいのかな」
ではなく、
「あ、今回もいつもの役を頑張ってたな」
くらいに思ってみてもいいのです。
家族に疲れたのではない。
家族の前で、自分ではない誰かを頑張りすぎた。
帰宅した瞬間の「ああ、疲れた……」は、冷たい人の言葉ではなく、
やっと役を降りた人の言葉なのかもしれません。
家族を大切にすることと、全部引き受けることは違う
私たちの世代は、とくに「家族を大切にすること」と「自分が我慢すること」を、くっつけて考えがちです。
私が動けば丸く収まる。
私が黙れば空気は悪くならない。
誰かがやらなければいけないなら、私がやればいい。
そうやって家族を支えてきた人ほど、自分の疲れには鈍くなります。
帰ってきてから急に動けなくなる。
些細なことでイライラする。
本当は優しくしたい家族に、不機嫌をぶつける。
そして今度は、
「そんな自分が嫌になる」
でも、そこでまた「頑張る私」に戻ったら、同じことの繰り返しです。
私は「家族丸ごと開運」という言葉を使っています。
けれどそれは、ママが家族のために何でもしてあげることではありません。
ママ一人が我慢して、みんなが機嫌よく暮らしている状態を、私は開運だとは思いません。
疲れたら、疲れたと言う。
自分でなくてもできることは、誰かに渡す。
一人になりたい日は、一人になる。
「みんなはどう思う?」より先に、
「私は今何をしたいんだ?」
と聞いてみる。
そういうことも、家族を大切にすることの一部だと思うのです。
自分をすり減らさないことと、家族を愛することは、両立できます。
むしろ、そのほうが長く続きます。
今日は「今の私」に戻る日
お盆が終われば、また日常が始まります。
でも帰ってきたその日くらい、すぐに通常運転へ戻らなくてもいい。
帰省の荷物は、ひとまず部屋の隅へ。
夕飯は、手のかからないものにする。
家族はわいわいやっていても、自分は一人でお茶を飲む。
眠ければ、少し横になる。
「楽しかったね! でもお母さんは疲れたよ!」
そんなふうに言ってみるのもいい。
そして、できれば一つだけ考えてみてください。
今回の帰省で、
「うれしかったこと」は何だったでしょう。
もうひとつ
「しんどかったこと」は何だったでしょう。
片方を消す必要はありません。
会えてうれしかった。でも、疲れた。
家族は大切。でも、一人になりたい。
どちらも本当です。
人の気持ちは、そんなに行儀よく一列には並びません。
家族に会って疲れたからといって、冷たい人になるわけでもないのです。
むしろ、家族を大切にしようとして、いつもの自分より少し頑張ったのかもしれない。
だから帰ってきた日は、
誰かの娘でもなく。
気の利く嫁でもなく。
頑張る妻でもなく。
家族を支える母でもなく。
少しずつ、「今の私」に戻っていく。
帰省とは、家族のもとへ帰ることだと思っていました。
でも本当は、
昔の自分から、今の自分へ帰ってくるところまでが、帰省なのかもしれません。
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I liked the idea that returning home can also mean slipping back into an older version of yourself. The roles may never have been formally assigned, but somehow everyone remembers them. That makes the relief of getting back to your own chair and your own routines feel very understandable.
私もずーっと聞き役を担っておりました。実家に帰るのが億劫なのも昔の自分に引き戻されて疲れるから😆 激しく共感できる記事でした。ありがとうございます♪